2011/02/04

1Q84

先週末に1Q84を読み終わりました。

相変わらず、言葉の使い方がうまいよね、村上氏は。私の心の中にいつまでも残るであろうと思われる表現は「まだ文字が彫られていない石版のような沈黙」という言葉。言葉を伝えるという石板の役目が果たされていない気まずさと、石という素材の重量感を伴った沈黙であることが伝わってくる素晴らしい表現だと思います。どういう生活をしたらこういう表現が思い浮かぶようになるんだろう。心に何かを感じながら物や人を見るということが大事なんだろうなぁ。

こんな素晴らしい表現が満載の1Q84ですが、結末の表現は意外とストレートなんだよなぁ。青豆さんにどうだったかと聞かれた天吾くんが「夢のよう」とかなんとか言うんだけど。すごくリアルだし、人生の同じような場面で誰でも一度は口にしそうな表現。

この表現の格差の裏には、小松さんの「二つの月がそらに浮かぶ光景を見たことのある読者はいない」という言葉があるんだろうと思います。天吾くんが対面した沈黙は、読者の誰もが対面する沈黙ではないので、それを緻密に表現しないと伝わらない。一方、最後の場面は読者の多くが体験し得る状況なので、余計な言葉で飾るよりストレートに表現した方が読者の体験と重なってよく伝わるということなんだと思う。

読後感としては、他の村上氏の作品同様、よくわからない。不思議な感じだけが残る。3巻にも及ぶ物語は不要であったようにも思えるし、必然であったようにも思える。

ただ、長い人生を生きてきたおっさんとして思ったこと。夢はいつか覚めて夢のまま終わってしまうことがある。他方、夢が現実に変わり日常化することもある。前者の場合、夢を追い求める気持ちだけが残って辛い一方、後者の場合は夢を手にするが陳腐化してもはや夢ではなくなってしまう。どちらがいいのかよくわからない。一番いいのは、夢が現実に変わってからも夢を見ていた時の喜びを噛みしめ続けること。だけどそれが一番難しい。

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