2011/01/08

トラクターを取っ掛かりに考えた

遂に日本版GPSってのができるんですね。新聞の情報によれば、他のシステムやアタッチメントを組み合わせれば測定の精度を数センチにまで高められるとか。日本の入り組んだ狭い農地でも遂にトラクターの無人運転が可能になるらしいです。

トラクターの無人運転をとっかかりに、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の社会モデルを思い浮かべてみました。

私は農作業に従事したことがないので農作業がどんなものなのかよくわかってはいないのですが、トラクターの無人運転が可能になるなら、今までは見張り1人+運転手1人の2人体制で行っていた作業は見張り1人でできるようになるんでしょうなぁ。

するってぇと、手の空いた1人は他の農作業をやればいいのでしょうが、利用可能な農地は限られており、暇にあかせて他の仕事をしたからといって農家の生産性が高まるということはないような気がします。では街で働くかと言ったってこのご時世、そう簡単に仕事など見つかるまい。という訳で手の空いた1人は詩作に励むしかあるまい(なぜに詩作?)

こんな状況があちこちで発生すると思われるので、世の中には大量のにわか詩人が誕生し、詩歌市場(そんなもんあるんかいっ!)には大量の駄作が供給されることになりますなぁ。一方顧客はトラクター自動運転のための設備投資が嵩んで購買力は低下。そうなるともう商売になりませんわ。詩歌市場は崩壊。大量のにわか詩人の運命は...?

こんなようなミクロ的現象が積み重なって、マクロ的には消費者の購買力が低下する一方で、生産者側では労働従事者数は減ってもトラクターの自動運転のお陰で供給能力に変化はないので、供給過多となりデフレが進行。次々に寄せてくる波のようにこんなことが起こるので、すぐにデフレスパイラルに入ってしまうんでしょうなぁ。

街には失業者が溢れ、お金はトラクターの自動運転を仕切る資本家のもとに集中し、社会の二極化がますます顕著になってくる。厳しい自然界であれば、生きる手段を持たない生物は淘汰され、環境に適応した者が環境を維持するに必要な数だけ残り最適なバランスが保たれるということになるのでしょうが、目先だけの保護が行き届いた先進社会では、自然淘汰は起こらない。となると、どういうことが起きるんだろう...というお先真っ暗なシナリオが。

そこで考えたこと。政府がとるべき仕組みとしては、究極的には2つしかないのだろうと。

1つは経済的効率性を全く追求しない完全な福祉社会。仕事の効率を落として大量の労働者を雇用し、多くの人に賃金が行き渡るようにする(一人でできる仕事も五人でやるってことね)。老齢・病気・怪我などのためにこの仕組みからもれてしまう人を扶養するための資金を税金として政府が蓄える。人間は労働で世の中に貢献し対価を得ることに喜びを感じる(と私は思っている)ので、人間を中心に据えた制度としてはいいのではないかと。社会科学を勉強したことがないので正しいかどうかはわかりませんが、社会主義ってことになるのかな(赤い貴族が支配するやつではなくてね)。しかし、この仕組みの中の経済は外部経済とは競争にならないし、保護を求めて移民が押し寄せるでしょうから、鎖国でもしないとこれは実現できないね。

もう1つは、人間社会を完全な自然状態にすること。要は規制を全て廃止し、完全な競争社会にすることで、完全なバランスのとれた社会を実現するということ。

今の世の中は根本的には後者に近いのでしょう。しかし、原則に従って「食えないやつは死ね」と声高に表明するわけにもいかないので、哲学のない目先だけの福祉政策がくっついてるって感じ。哲学がないので福祉費用(税金ね)を負担する人からは文句の嵐。あーぁ。でも忘れてはいけないのは、紛争地域や飢餓地域では、「食えないやつは死ね」って現象が実際に起きていて、悲しいことではあるけれども、これが地球規模での人口増加、需要過剰による社会の崩壊を防いでくれているってこと。

世の中って難しい。何が理想なのかもよくわからん。

しかし、トラクターからこれだけ妄想できる俺って...水島ヒロになれるか!? ちがうかぁ!?

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